西行の俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)、平安時代から鎌倉時代にかけての武士であり、のちに出家して円位を名乗り、さらに西行と称する。
大変な歌人であり、勅撰集である「新古今集」には入撰数第1位の94首が入撰している。
「桜の歌人」と呼ばれるには理由があり、生涯に約2300首を詠んだ西行の歌のうち、桜をよんだものが一割にもなる。
万葉集には約4500首が詠まれているが、萩と梅は100首をこえるが桜はせいぜい40首。つまり、「花といえば桜」にしたのは西行にほかならないのだ。
たぐいなき花をし枝に咲かすれば
桜に並ぶ木ぞなかりける
松岡正剛は、「面影日本」の中で、西行と桜をこのように称している。
「西行は桜を詠んだ。年々歳々、桜の季(とき)が来るたびに、西行は乙女のように花と戯れ、翁のように花の散るのを惜しんだ。(中略)
花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上なのである。ぼくはそういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた」
西行が没したのは、太陽暦では1190年3月31日とされている。享年73。
実はとても有名な歌があるのですが、これはご存知の方も多いと思う。
ねがわくは花のもとにて春死なむ
その如月の望月のころ
太陽暦の1190年3月31日というのは、和暦では建久元年2月16日ということになる。「如月の望月のころ」というのは、2月15日(満月)になる。西行が愛してやまない桜が盛りの時期であり、また釈迦入滅の日でもあるのだ。つまり、この歌の通りに西行は亡くなった。
そのため、西行忌は2月15日になっている。