1985年8月12日19時半ごろ、テレビ各局は、日航ジャンボ機が、レーダーから消えたという第一報を告げた。
それからメディア各社は混乱の取材合戦となる。横山秀夫の小説で映画にもなった「クライマーズ・ハイ」さながらの現場だった。
翌日の「ズームイン‼︎朝!」のディレクターだった僕も、その騒ぎの渦中にいた。
お盆直前の東京−大阪便、夏休みでもあり乗員乗客524人を乗せた航空機の遭難だ。
折しも徳光和夫キャスターは夏休みで、翌日のキャスターは辛坊治郎(YTV)と森きく子(SDT)に決まっており、彼らの緊張も究極のものとなった。
夜を徹しての取材、そして翌朝のNNN報道特別番組となった「ズーム」の本番のディレクションは、生涯忘れることができない。
夢中で作り上げた90分間になった。我々は何か少しでも役に立てたのであろうか?
結局、墜落地点が確認されたのは番組が始まる前の翌朝早朝、生存者の発見と救出は昼前のこと。報道は、この後しばらくこの事故一色に染まった。
航空機の単独事故としては、520人の死者を出す史上最多・最悪の事故となった。
横山秀夫が「クライマーズ・ハイ」で描いた、現場を見た記者の現場雑感が胸に突き刺さる。
若い自衛官は仁王立ちしていた
両手でしっかりと、ちいさな女の子を抱きかかえていた
赤い、トンボの髪飾り
青い、水玉のワンピース
小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた
自衛官は天を仰いだ
空はあんなに青いというのに
雲はぽっかりと浮かんでいるというのに
鳥は囀り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに
自衛官は地獄に目を落とした
そのどこかにあるばずの、女の子の左手を探すために
我々は、歴史に残る大事故を目撃した。
これを忘れることなく、事故防止に生かしていく義務がある。