明和4(1767)年6月9日、旗本・松平信成の屋敷で、用人・滝沢運兵衛の五男として生まれる。兄の早逝や養子に出たことなどにより、滝沢家を継ぐも徘徊や戯作に強い興味を持つ。本名から、滝沢馬琴とも呼ばれる。
24歳で山東京伝に弟子入りを願う。弟子入りは断られたが、親しく出入りすることは許された。
そして26歳で、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代となる。武士の身でありながら、商人に仕えるためか、通称を瑣吉(さきち)とする。
映画「HOKUSAI」では、瑣吉(辻本祐樹)と葛飾北斎(柳楽優弥)の友情が詳しく描かれていて、のちに二人で「椿説弓張月」を描くシーンもある。実際一時は、北斎が馬琴宅に居候するように暮らしていたこともあるらしい。
そして、最高傑作「南総里見八犬伝」が生まれるのは、馬琴が47歳でまさに油が乗った頃のことになる。
八犬伝は大ヒットとなり、その執筆は28年にも及ぶ。
隠居し、目の不調を訴え、ついに失明しても息子・宗伯の妻お路が口述筆記をすることで書き続け、天保13(1842)年についに完結する。
その後もお路とともに執筆を続けた曲亭馬琴は、嘉永元(1848)年、82歳で没する。馬琴が残した日記は、その精緻な描写故、当時を知る貴重な資料として現在も刊行されている。
原稿料のみで生計を営むことができた、日本で最初の作家であった。