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  日本航空123便墜落事故の日
Rakza MAGAZINE

日本航空123便墜落事故の日

2023.08.12
編集長の独り言
田中 尚雅

1985年8月12日19時半ごろ、テレビ各局は、日航ジャンボ機が、レーダーから消えたという第一報を告げた。

それからメディア各社は混乱の取材合戦となる。横山秀夫の小説で映画にもなった「クライマーズ・ハイ」さながらの現場だった。

翌日の「ズームイン‼︎朝!」のディレクターだった僕も、その騒ぎの渦中にいた。

お盆直前の東京−大阪便、夏休みでもあり乗員乗客524人を乗せた航空機の遭難だ。

折しも徳光和夫キャスターは夏休みで、翌日のキャスターは辛坊治郎(YTV)と森きく子(SDT)に決まっており、彼らの緊張も究極のものとなった。

夜を徹しての取材、そして翌朝のNNN報道特別番組となった「ズーム」の本番のディレクションは、生涯忘れることができない。

夢中で作り上げた90分間になった。我々は何か少しでも役に立てたのであろうか?

結局、墜落地点が確認されたのは番組が始まる前の翌朝早朝、生存者の発見と救出は昼前のこと。報道は、この後しばらくこの事故一色に染まった。

航空機の単独事故としては、520人の死者を出す史上最多・最悪の事故となった。

横山秀夫が「クライマーズ・ハイ」で描いた、現場を見た記者の現場雑感が胸に突き刺さる。

  若い自衛官は仁王立ちしていた

  両手でしっかりと、ちいさな女の子を抱きかかえていた

  赤い、トンボの髪飾り

  青い、水玉のワンピース

  小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた

  自衛官は天を仰いだ

  空はあんなに青いというのに

  雲はぽっかりと浮かんでいるというのに

  鳥は囀り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに

  自衛官は地獄に目を落とした

  そのどこかにあるばずの、女の子の左手を探すために

我々は、歴史に残る大事故を目撃した。

これを忘れることなく、事故防止に生かしていく義務がある。

田中 尚雅
Naomasa Tanaka
クリエイティブ部門を担当する田中尚雅です。MAGAZINの編集長でもあります。
社会が幸福になるには、それを構成する一人ひとりの幸福こそが必須です。 そのために、あらゆる方法で人と伴走したいと考えています。
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