大石内蔵助良雄は播州赤穂藩の筆家老であり、元禄15年12月14日、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央ら20余名を惨殺した。
有名な赤穂事件である。
大石ほかの赤穂の浪士たちは、主君・浅野内匠頭長矩の仇討ちを遂げた後、浅野の墓がある泉岳寺へ引き揚げ、墓前に報告ののち直ちに投降した。
幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとしていたが、元禄16年2月4日、切腹の命令がもたらされ全員が腹を切って果てた。
大石内蔵助は享年45、浪士たちの亡骸は主君と同じ泉岳寺に葬られた。
法名は忠誠院刃空浄剣居士、自生の句は
極楽は道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人
同じ日、幕府は吉良良周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めており、歴史上最も有名な仇討ち事件は結局すべての人を不幸にしたように見える。
尚、大石忌は新暦の命日3月20日とされている。
京都・祇園の一力亭では、この日に討ち入りそばが供えられるという。