1905年6月30日、アルベルト・アインシュタインが「運動する物体の電気力学について」という論文を、ドイツの物理雑誌「アナーレン・デル・フィジーク」に提出した。
この年、26歳だったアインシュタインは、「特殊相対性理論」に関わる重要な論文を立て続けに発表し、奇跡の年と呼ばれている。
この時の彼の仕事は、スイス連邦特許局の無名の技師だった。
アインシュタインは、1879年3月14日ドイツ生まれ。
子どもの頃から、言葉を発することが少ない少年だったが、数学に関しては傑出した能力を発揮していた。
奇跡の年以降の活躍は目覚ましく、いつノーベル賞をもらってもおかしくないと本人も周囲も思っていた。アインシュタインが最初の妻ミレヴァへの離婚の条件として、「ノーベル賞を取ってその賞金を譲る」というのが受け入れられたほどに。
ノーベル賞の受賞の通知が届いたのは、離婚成立後の1919年6月、アインシュタインが日本に向かう途中のことだったという。
かの有名は舌を出した写真は、1951年のアインシュタインの誕生日(3月14日)に、NS通信社のカメラマン、アーサー・カスに「笑ってください」と言われ、危うく笑いそうになったのを隠そうとした表情を撮ったものだ。
それほど、人前では滅多に笑顔を見せない人だった。この写真は、その年のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞している。
1955年に、哲学者のバーナード・ラッセルと共に核兵器の廃絶や戦争の根絶などを訴えるラッセル=アインシュタイン宣言に署名したのち、心臓付近の痛みに倒れる。
そして、同年4月18日、入院先のブリンストン病院で息を引き取った。76歳だった。
死の間際に、アインシュタインは最後の言葉を残したが、ドイツ語を理解できる看護師ではなかったため、その言葉は今も不明である。