東京・日本橋の裕福なモスリン問屋に生まれた増永丈夫は音楽の英才教育を受け、慶應幼稚舎に入った頃から楽譜が読めたという。
東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)に入学後は、実家の経営が傾き廃業した時期でもあり、写譜のアルバイトやレコードの吹き込みの仕事を始めるようになる。
その頃、学校には校外演奏を禁じる規則があったため、藤山一郎という芸名を使うようになった。
古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」は、日本に蓄音器が20万台しかない中で100万枚という狂乱に近い大ヒットとなり、同じく古賀メロディの「丘を越えて」も大ヒットする。
東京音楽学校を主席で卒業した藤山は、ビクター、テイチク、コロムビアと移籍をしながらヒット曲を量産する。
順風満帆に見えた人生でも、戦時中は南方の慰問に出かけ、捕虜になった時期もあった。
戦後、復員輸送船で帰国した藤山は、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲の名曲「長崎の鐘」と出会い、この曲がまたしても大ヒットし、さらに「青い山脈」もヒットし国民的歌手になる。
1992年に国民栄誉賞を受賞するが、その理由は「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の歌唱に独自の境地を開拓した」、また「長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」というものだが、誠にその通りである。
僕の高校時代の恩師に糸井通浩という人がいる。もうすでに故人だが、京都教育大学と龍谷大学の名誉教授を務めた国文学者であり、その著書の中にこんな文章がある。
紅白歌合戦というと、こんな話を聞いたことがあります。フィナーレで「蛍の光」が歌われることが多いようですが、指揮をした藤山一郎さんは歌詞の最初の出だしの部分だけは口を閉じていて、その後は皆と一緒に歌っていたそうです。どうしてかと確かめると、出だしの「蛍の光」のところは「気持ち悪いから」という返事。なぜなら、「ホタールノ ヒカーリ」というメロディになっていますが、アクセントは「ホタル」「ヒカリ」ではないかとうわけです。
藤山一郎が、実に音楽も日本語も正しく理解していたという証拠ではないだろうか?
1993年8月21日、藤山一郎は82歳の生涯を終えた。