1954年3月1日未明、アメリカは太平洋ビキニ環礁において、水爆実験を行った。広島型原爆の、約1000倍の威力を持つ水爆によって、マーシャル諸島や日本の漁船などが被災した。
焼津のマグロはえ縄漁船「第五福龍丸」は、アメリカ政府が指定した危険区域外で操業していたが、予想をはるかに超えた放射性降下物により、数時間にわたる作業中に23人の乗組員全員が被爆し、急性放射能症にかかった。
当時40歳であった無線長の久保山愛吉さんは、その年の9月に「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残して亡くなった。
この被爆事故は日本国民に大きな衝撃を与え、全国に原水爆禁止運動が広がった。3千数百万の原水爆禁止署名が集まり、翌年8月には第1回原水爆禁止世界大会が開催された。
第五福龍丸の船体は、1976年に開館した東京都江東区・夢の島公園内にある「東京都立第五福竜丸展示館」で、今も見ることができる。
日本が一貫して掲げてきた原水爆禁止運動は世界に広がり、核兵器廃絶に向けて大きな流れを作っている。いつの日か、人類が核兵器廃絶の道を選択することを望みたい。